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Quot homines tot sententiae(人の数だけ意見がある)。

科学的正しさと客観的承認

 みわよしこ氏の国際学会参加に関する一連の記事で感じた事があるので述べたい。

 本論に入る前に、科学ではなく、私の個人的思想の全体論としては、氏がこれまで展開してきた考えに賛同するものが多いという立場である事を述べておく。本エントリーは、科学者としての氏のあり方への疑問である。
 1.学会参加(ポスター or オーラル)の審査の実際

 みわ氏は、記事において「国際」学会に自分の研究が(国内査読誌への投稿論文はリジェクトされたが)審査を受け受理された事を強調している。研究経験がない一般の人にはそれが凄い事のように感じる人もいるが、学会の審査は必ずしも厳しい物とは限らない。なお、私の経験としては、トンデモな投稿をして不受理になったという研究の噂を聞いた事がある程度である。大した才能がない私についてはと言えば、学部生の頃から学会参加経験があるが、一度も不受理になった事はない。分野が違うものの、まともな研究機関・指導教官の下ならば、不受理になる方が珍しいのではないかと推察される。

 
2.正しくない一般化・全体化
 記事において、『「米国人」が〜と述べた』と強調し、あたかもそれが「米国人」の一般論であり、科学的に正しい真理であるかのように述べているが、それは正しい姿勢と言えるのだろうか?あくまで、この例から言えるのは、氏のポスターを見て「賛同してくれた人がいた」という事だけである。
  また、自分のポスター発表に(氏の言い分を100%鵜呑みにするなら)難癖をつけた一例を以て、その人が「国策に沿った研究でない」という理由で攻撃しているという明確な根拠がないのに関わらず、日本の理系は〜という否定的記事を書くのは、全生活保護者に不正受給者のレッテルを貼るのと全く変わらない。
 
3.「特定の承認を得た=科学的に正しい」とは限らない

 海外の人、「米国人」に認められたことを以て、氏は自分の「研究」の正しさ、説得力を補強強化しようとしているのではないかと私には感じられた。科学者も陥りやすい、この権威主義は科学的正しさを追及する上で、厄介だ。

 よく分かる例として、STAP細胞でも疑義が指摘され議論され始めた頃、ハーバードやNatureという海外権威を上げて、科学とは外れた本質でない反論を試みる者がいた事を考えれば、権威主義の問題性が分かるはずである。

    みわ氏の科学者としての哲学がどのような物かは私には分からないが、私の哲学では科学的根拠を伴わない権威主義に依った科学的主張は最も忌むべき手法である。

    科学はデータに基づく客観的事実にのみ評価されるべきであって、「評価された事」自体をその研究を行った者が自説の強化の為に権威主義的に誇張するのはいささか疑問を感じる。

 みわ氏の研究は耳を傾けるべき示唆に富む物であっただけに、残念でならない。